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わしのきほん 和紙の基本
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和紙のはじまり 〜蔡倫さんと曇徴さん〜
 中国では、前漢時代(紀元前140〜120年)の遺跡(いせき)から、麻でできた紙の実物が発掘(はっくつ)されています。その後、『後漢書(ごかんしょ)』に、宮廷(きゅうてい)で使う器物を作る役所の長官であった蔡倫(さいりん)が、木の皮、麻の繊維(せんい)、古布、麻の魚網(ぎょもう)等を原料として紙を漉き、人々がそれを『蔡候紙(さいこうし)』と呼び讃(たた)えたと記されます。
 蔡倫は樹皮(じゅひ)や麻を原料とする製紙(せいし)法を完成させた人、紙の地位を新しい材料と技術で引き上げた、「製紙技術の改革者」といえるようです。その新しい技術が朝鮮(ちょうせん)半島を経(へ)て、やがて日本へと伝わってきたのです。

 蔡倫によって改良された紙は、朝鮮(ちょうせん)半島に伝わり、4〜6世紀頃には製紙が始まったと考えられます。その技術は610年に、高句麗(こうくり)の僧(そう)曇徴(どんちょう)によって日本に伝えられました。『日本書記(にほんしょき)』推古(すいこ)18年のくだりに、「高麗王(こまのきみ)により遣(つか)わされた僧曇徴は、五経を知り、彩色(絵の具)・紙・墨(すみ)をつくった」とあります。
 製紙についてはこの時にはすでに日本に伝わっていたと考えられており、曇徴によって生産効率(せいさんこうりつ)のよい最新の製法が伝えられたのではないかと考えられています。

和紙ちょこっとコラム

造紙三神像の掛け軸
造紙三神 蔡倫宮掛け軸

中国の紙祖蔡倫を中央に、向かって左に日本に造紙技術を伝来した高麗の曇徴、右に西嶋紙祖望月清兵衛の三神像を配する。『和紙のすばらしさ』の三神像と同じ構図。(身延町歴史民俗資料館蔵)
西嶋の『造紙三神像』の掛け軸

 『和紙のすばらしさ−日本・韓国・中国への製紙行脚(あんぎゃ)−』という本の表紙を開くと、口絵の『蔡倫(さいりん)、曇徴(どんちょう)と望月』という題の掛け軸(かけじく)の写真が目に飛び込んできます。そう、この口絵を飾っているのは、西嶋の和紙職人たちがお祀(まつ)りした『造紙三神像(ぞうしさんしんぞう)』の掛け軸なのです。「望月」はもちろん、西嶋に和紙を伝えたという紙祖(しそ)、望月清兵衛さんです。この本の原書は1936年にアメリカで発刊された『A Papermaking Pilgrimage to Japan, Korea and China』(Dard Hunter)です。
 この本の作者は1883年アメリカ・オハイオ州に生まれた美術工芸家のダード・ハンターさん。父が印刷業者だったことからその分野に関心を持ち、オーストリア王立印刷学校に留学(りゅうがく)・卒業後、さらにロンドン王立工業大学で手漉(す)き紙の道具製作(せいさく)を学びました。その後、ヨーロッパからアジア、アフリカまで、40余りの国の製紙事情について現地調査と資料収集を行いました。その調査をもとに手漉き製紙に関する多くの著作を出版し、国際的な紙史研究の最高権威(けんい)となった人物です。
 1932年に『中国と日本での昔の紙つくり』を発刊した後、「東西の技術の歴然とした差」を感じたハンターさんは翌年春、日本・韓国・中国への製紙行脚に出ます。その経験をまとめたのがこの『和紙のすばらしさ』で、本書の中でハンターさんは和紙を世界最高のすばらしい紙と讃(たた)え、その評価を定着させたのだそうです。

 本書ではこの口絵について、こんなふうに書かれています。
蔡倫社と碑
西嶋、栄宝寺の境内にある蔡倫社と頌徳の碑。
西暦(せいれき)1572年に西島村〔甲斐国〕で紙つくりをはじめた望月清兵衛の業績(ぎょうせき)を記念して、日本の絵師(えし)がつくった掛物(かけもの)。この絵は望月の肖像(しょうぞう)とともに、中国の紙の発明者・蔡倫(さいりん)を想像した肖像、西暦610年に日本に紙を導入(どうにゅう)した高句麗(こうくり)の僧・曇徴(どんちょう)が描かれていて興味(きょうみ)深い。

 西嶋に製紙産業をもたらしたと伝わる望月清兵衛さんを、「西嶋の紙祖蔡倫」と呼び讃えた紙漉き職人たちは、明治16年に祠を、同45年には頌徳(しょうとく)の碑(ひ)を建立(こんりゅう)しました。現在でも毎年1月25日には例大祭(れいたいさい)を行い、蔡倫さん、曇徴さんとともに「紙祖三神像」として掛け軸に収め、お祭りしているのです。そこには、紙漉き職人たちの素朴(そぼく)な信仰と西嶋和紙への誇(ほこ)りが込められています。